『1984年のUWF』はサイテーの本!■「斎藤文彦INTERVIEWS」

80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回は話題のノンフィクション本、柳澤健氏の「1984年のUWF」(文藝春秋・刊)について16000字の激語りです!

(聞き手/ジャン斉藤)

 

 

――今回『1984年のUWF』をテーマにすると聞いてちょっと驚いたんです。この本にはケーフェイについても書かれているので、プロレスマスコミの立場によっては触りづらいと思っていたので。
 

フミ そうなんですか? 


――たとえばミッキー・ローク主演映画『レスラー』が公開されたときも、プロレスの裏側も描いているので「見た」と公言できないというマスコミや団体関係者が多かったですし。


フミ いや、ボクは『週刊プロレス』のBoysコラムで『レスラー』のことは書きましたよ。それはきっと映画の内容についてコメントを求められるのがイヤなんでしょう。この業界でずっと長く仕事をしたいと考えた場合の保身の発想であり、己かわいさなのかもしれない。ボクは大丈夫です。それに、プロレスはそんなにヤワにできていないですし、『1984年のUWF』は本当に酷い本ですので、これはちゃんと批判しないといけません。とにかく本当に最悪な内容なんですよ。


――えっ、そんなに酷い本なんですか。読み応えはありましたが……。


フミ そういえば、ある編集者に「Dropkickで『1984年のUWF』について話す」と言ったら「ジャン斉藤さんは柳澤さんを絶賛してましたよ」と言ってましたね。


――それは『1976年のアントニオ猪木』のことですかね(笑)。今回の『1984年のUWF』でも更科四郎さんのことを紹介したり、ボクが過去に取材したフクタレコードの福田典彦さんを始めとする関係者の発言が引用されていたんですが。この本の感想を言えば、「新生UWF」の章までは面白かったんですけど……。


フミ 「新生UWF」は何章ですか?
 

――9章ですね。それ以降はところどころ「えっ?」って感じで引っかかる記述が多かったんですね。UWFの歴史を追うというよりは物語を描かれてるという感じで……。


フミ いや、それは9章以降に限った話じゃないんですよ。あの本はノンフィクションではなく柳澤健さんのフィクションです。それを歴史の書だとか事実の記録だと誤解している人たちは目が曇っていますよ。


――この本の批判でよく聞くものは、前田日明を下げて、佐山サトルを上げてるんじゃないか、ということですよね。


フミ いや、もうそういうレベルの酷さではないんですね。この本はプロレスの捉え方が根本的に間違ってるんです。この本を読むとわかるのは、柳澤さんという方は、プロレスというジャンルについて何かを書くための基本的なベースが一切ないことなんです。単純な事実の誤認を含めて間違いの上に間違いが重なり合い、何重にも何重にも誤りがあって収拾がつかなくなって、間違いの雪だるまみたいな本になっています。


――そ、そこまで言いますか。


フミ プロレスファンがこの本を読んでも、学べることは何一つないんですよ。まず、ビギナーからマニアまでに共通した弱点として「ノンフィクション作家」を名乗る人や、プロレスマスコミではないところの媒体を、自分たちより上みたいな感じに崇めてしまいがちなんですね。この本に書いてあることがいかにデタラメであっても、自分より偉い誰かが書いていて、きっと真実なんだと誤解してしまう。あらためて言いますが、この本はノンフィクションですらないんです。まず当事者であるレスラーの取材・分析を一切省略してますよね。前田日明、佐山サトル、藤原喜明、高田延彦……その他UWFの選手たちを誰ひとりとして取材しないで書かれてるんですね。


――あえて取材していないんでしょうね。


フミ 当事者の証言をすべてすっ飛ばしておいて、周辺の関係者やマスコミは取材して、柳澤さんの仮説にマッチする関係者の発言だけを極めて恣意的に抽出してるだけなんです。


――たしかにこの関係者の真偽不明な発言は採用するんだっていう疑問はありましたね。骨法の堀辺正史師範を筆頭に……。


フミ 堀辺師範でも誰でも、関係者の発言をカギカッコ付にして書くことで、腹話術のように自分の仮説を主張しています。そのうえで関係者の心情を柳澤さんが勝手に語ってるんですよね。だからこの本はノンフィクションではなくて、柳澤さんの書いたフィクションなんです。

――たとえば、どこが間違いなんですか?


フミ とにかく間違いだらけで、どこから取り上げていればいいかわからないですが……まず27ページの13行目を読んでください。


――「プロレスはリアルファイトではなく、観客を喜ばせるためのパフォーマンスであり、勝者と敗者があらかじめ決められていることは事実」。


フミ ……と書かれてますが、この文章の前後にはその定義付けのようなものを論証するエビデンス、論拠がまったく示されていないんです。「あらかじめ決められていることは事実」を示すものがない。そのあとには「リング上で行われている試合の勝敗を決めるのはプロモーターであり、残念ながらレスラーではない」と書いてますが、プロモーターというのは誰のことを指しているつもりなのかもわからない。柳澤さんはノンフィクションライターを名乗ってるのに、ノンフィクションたりえる証言や証拠を積み上げる作業をせず、個人的な偏見から「プロレスはあらかじめ勝敗が決まっている」と。「プロレスは――」から始まっていますから、ここはひじょうに大切なセンテンスなんです。ところが、もの凄く唐突に断言してしまってるんですね。次は29ページの11行目です。


――「アメリカに渡ってからはカール・ゴッチと名乗り、アメリカ各地に生き残る伝説の強者からサブミッションレスリングを学んだ」。


フミ 読んでみてどう思います? プロレスの歴史を少しでも知る人間なら間違いにすぐに気づきますよね?


――……まあ、おかしいですね。


フミ ゴッチさんは「アメリカ各地に生き残る伝説の強者からサブミッションレスリングを学んだ」? 「伝説の強者」? 誰のことですか? プロレスファンならすぐわかることなのに、なぜこんなデタラメを書くのか。ゴッチさんがサブミッションレスリングを学んだのはアメリカに渡る前、イギリスのビリー・ライレー・ジムです。次は同じ29ページの14行目を読んでください。


――「1960年の時点で、すでにプロフェッショナル・レスリングは純然たるエンターテイメントであった」。


フミ これもエビデンスを示していない。では、1950年代、1940年代、1930年代、1920年代のプロレスはリアルファイトだったのか。フランク・ゴッチの時代は? マルドゥーンの時代は? 最初から最後までこんな感じで重要なことを極めてアバウトに書いてるんですよ。同じ29ページの16行目を読んでください。


――「観客が求めるのは興奮だ。レスリングのリアルファイトなど地味でつまらない。観客が求めているのは地味なリアルファイトではなく。興奮できるショーなのだ」。


フミ まあ、ここが柳澤さんの一番の弱点なんです。続けてください。


――「だからこそ、ふたりのレスラーは一致協力して興奮できる試合を作り上げなくてはならない。手に汗握る熱戦の末に、最後には観客が応援するレスラーが必ず勝つ。観客は愛するレスラーの勝利を自らの勝利と同一視して興奮する。アクション映画のように、あらかじめ興奮が約束されているからこそ、観客は次の興行にも足を運んでくれるのだ」。


フミ そもそも「リアルファイトが地味」とういうのも偏見ですが、プロレスファンが求めてるのは「興奮」だけなのか。百歩譲って興奮があったとしても、それはプロレスファンがプロレスに求めているたくさんのもののうちの1つでしかないですよ。興奮かもしれないし、熱狂かもしれないし、感動かもしれないし、共感かもしれない。ストレス解消かもしれない。どうして「興奮」と決めつけるかといえば、この人には少年時代にプロレスファンだった経験が一度もないからなんです。こんな短い段落の中に「興奮」という単語を立て続けに5回も使っている。きっと本気でそう思っているのでしょう。単純に言ってしまえば、柳澤さんは「プロレス八百長論」の方なんです。八百長か、真剣勝負かという一点だけしかプロレスを論じる視点を持ち合わせていないんですね。


――プロレスを二元論で捉えていると。


フミ なぜそうなのかといえば、柳澤さんはプロレスファンなら必ず通過している体験をしていないからです。皆さんには経験があると思いますが、第三者に「プロレスファン」を名乗った時点で、それが学校の先生でも、親戚のオバサンでも、八百屋のオジサンでも、誰でいいけれど「プロレスはね、ショーなの、八百長なの。そんなこともわからないの?」と指摘されるんです。柳澤さんは、無垢なプロレス少年ファンに対して「プロレスは八百長なんだよ」と囁く隣のオジサンの立ち位置なんですね。そこにしか立ったことがないからプロレスの魅力は何か、プロレスとはなんなのか? を考えるのではなく、ステレオタイプな八百長論しか頭の中にない。プロレスファンじゃなかったからこそ外側から事実を書けると言いたいのかもしれませんが、それさえも不可能なんだということはこれからの説明でわかってきます。まず32ページの後ろから2行目を読んでください。


――「世界最強のレスラーであるカール・ゴッチの試合には、悪役レスラーの反則によって危機一髪の状況に追い込まれることも、流血戦もなかった」。


フミ ボクはカール・ゴッチさんのことが大好きで、何回もフロリダの自宅を訪ねたことがありますが、「世界最強のレスラー」なコピーのようなものはいったい誰が定義したのか。その根拠も出典も記されていないし、最初から「であろう」という推測、偏見しかない。何度も言いますけど、この人は固定観念、先入観、ステレオタイプ、ありとあらゆるプロレスへの偏見から書いてるんです。何の論拠もなく「世界最強のレスラーであるカール・ゴッチの試合には、悪役レスラーの反則によって危機一髪の状況に追い込まれることも、流血戦もなかった」……ゴッチさんの試合なんか見たこともないんでしょう。何もかもリサーチ不足。詳しく調べてないんですよ。なんでこんなデタラメが書けるのか。


――そういえば『1984年のUWF』では、ダッチ・マンテルが前田日明にシュートスタイルで酷い目にあったとマンテル本人の自伝から引用して書いてて、そのボヤキっぷりが最高に面白かったんですが、YouTubeにアップされている前田日明vsダッチ・マンテル戦を見るかぎり、そんな物騒な試合ではなかったですね。


フミ 当事者に取材していないにも関わらず、そういった自分に都合のいい証言はよく精査せずに引用してるんですよ。ゴッチさんについては、もっと酷いことを書いています。許せないです。
 

――「ゴッチのプロレスには、観客を興奮させるだけのスリルとサスペンスが決定的に不足していたのである」(P32)


フミ 続けて「観客を興奮させることのできないレスラーがメインイベンターになれるはずもない」なんてことが書かれています。「スリルとサスペンスが決定的に不足していたと言われている」ならまだしも、そうやって断言できるだけのエビデンスを持ち合わせていない。これはボクの実体験なんですけど、ボクは小学4年生のときにテレビでゴッチvsビル・ロビンソン、ゴッチvsモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)を見て、小学5年生のときに蔵前国技館でゴッチvsアントニオ猪木の“幻の世界戦”、小学6年生のときには蔵前で猪木&坂口vsゴッチ&ルー・テーズのタッグマッチを生で見ました。50年以上もプロレスにハマり続けているのは、ゴッチさんのプロレスを見たからなんですよ。この本には、あれほどプロレスラーとしても魅力的だったゴッチさんの姿があぶりだされていないんですよ。単なる八百長論を展開するためにゴッチさんが使われている。


――「ゴッチを理解したのは、日本人だけだった」とも書いてますね。


フミ それも柳澤さんの固定観念なんです。日本でしか受け入れられないならWWWF(現WWE)のリングに上がれていないですし、アメリカでレスラーとして生活できていない。そこは定説に乗っかってるだけですよね。疑いの目や批判の目をもってそういう定説を切り崩していくのがノンフィクションの本来の姿勢であるはずでしょ。この本ではゴッチさんがWWWFでタッグのベルトを獲ったことがまるで意外なことのように書いてありますけど、ゴッチさんはオハイオのアル・ハフトというプロモーターがやっていた大きなローカル団体のベルトも獲ってます。ボクはオハイオAWAと呼んでるんですけど、ゴッチさんはオハイオAWAの世界チャンピオンになってるんです。そういう事実を記述することなく、最初からゴッチさんは不遇だったという定説、結論ありきで書かれているんですね。それは38ページの2行目からもわかります。


――「ゴッチに残された役割は、前座レスラー数名のブッキングと、日本の若手レスラーにわずかな期間だけプロレスの基礎を教える臨時トレーナーだけになった」。


フミ これは新日本に対して悪意が篭っているし、ゴッチさんのこともバカにしている。ゴッチさんは大したことを教えていないと書きたいんでしょう。ゴッチさんは日本プロレス時代にも1年以上日本に住んでレスラーの指導をしていますし、新日本時代も日本に滞在しながら、弟子とは呼ばれていない荒川真、小林邦昭、栗栖正伸、グラン浜田らにも教えてるんですよ。それにゴッチさんが指導したのはプロレスの基礎ではなくレスリングの基本です。次は139ページの後ろから2行目を読んでください。


――「自分たちはプロだ。厳しい練習に耐えているのは、リング上で華やかなライトを浴び、テレビの電波に乗って日本中の人気者となり、大金を稼ぐためなのだ」。


フミ 「大金を稼ぐ」? 柳澤さんはプロレスラーってそれしか目的がないと本当に思い込んでるんでしょうね。プロレスを知らないからこそ「テレビもつかないマイナー団体に行くのは愚の骨頂だ」とも書いてしまう。そして149ページの11行目も酷いんです。


――「アントニオ猪木は柔道家や空手家、ボクサー、キックボクサーなどを自分のリングに上げて異種格闘技戦を戦い、カネで勝利を買っておいて……」


フミ 競技スポーツという前提で論じるなら、お金で結末を買う行為が八百長であることはわかりますよ。でも、柳澤さんは最初からプロレスを競技スポーツとして見ていないのに、どうやって勝利をカネで買うというんでしょうか。ならば、勝利をカネで売った方のロジックは? プロレスのそもそもの論じ方が間違ってるからこんなことを書いてしまう。


――柳澤さんのプロレスの定義はショーというものですね。


フミ この一文にからでも単純な八百長論者であることがよくわかりますね。柳澤さんはプロレスは勝ち負けがあらかじめ決まってるからスポーツではないと言うんですよ。でも、じつはスポーツの定義すら間違ってるんです。柳澤さんが言ってることは、競技スポーツという意味だと思うんですね。これは社会学の話なんですけど、スポーツの原型ができたのは18世紀から19世紀にかけての近代化の時代。イギリスの一地方で特殊なゲーム形式を伴う身体運動文化というものが起きて、それをルールで統一したものがスポーツの原型になります。スポーツの定義としては「競技的性格を持つゲームや運動及び、そのような娯楽の総称」なんです。勝ち負けを争うかどうかはスポーツの定義の中のひとつでしかない。実際、勝ち負けを争わないスポーツは多いんです。アウトドアスポーツは勝ち負けを争わないですよね。ジョギングやダンスは勝敗を競わないスポーツですよね。フィギュアスケートや水泳、スキーなどもずいぶんあとから点数を付けて勝ち負けを争うようなシステムになったわけですよね。

 

つまり、競技か競技じゃないか、勝ち負けを争うかどうかは、いくつかあるスポーツの定義の中のひとつでしかないんです。プロレスはもちろんスポーツです。このスポーツ文化論の概念をわかっていれば、プロレスへの理解も深まると思うんですけど、その土台が間違えたまま柳澤さんは競技スポーツだけを論じてしまってるからおかしことになっていくんです
 

 勝敗を争っていなかったとしても、ゆえにスポーツではないという論理は成立し得ない。プロレスの場合、仮に百歩譲って結末が決まっていても、それは公開されてないからお芝居や映画とは違う性質のものなんです。ドラマや映画は脚本が読むことができるけど、プロレスは先にそれを読むことはできない。しかし、隠してるイコール騙している、見てる方が騙されてるという単純な図式にも当てはまりません。だいたいそんな単純な視点でプロレスを見てるファンはいませんよ。


繰り返しますがスポーツでなくショーであるならば、カネで勝利を買えるということに矛盾が生じるし、そうやって書いてしまうことからプロレスというものへの理解が足りないことがわかります。柳澤さんはプロレスを論じるスタート地点にすら立っていないんです。プロレスはエンターテイメントと言いながら、エンターテイメントであるべきプロレスはないがしろにしている。結局、プロレスを「競技スポーツ」のふりをした「お芝居」だとしか思ってない。プロレスラーは脚本どおりに演じているにすぎないと思い込んでいるんです。次は149ページの7行目を読んでください。


――「マサ斎藤や坂口征二、藤波や長州力、タイガーマスクらが次々に登場し、メインイベントは必ずアントニオ猪木が締めくくる」


フミ その次が凄く大事です。柳澤さんがプロレスへの知識がないことや、自分の都合で書いてることがよく表れています。


――「このように、藤原はテレビに映らない前座レスラーにすぎない」。


フミ わかりますよね?


――そうですねぇ……。


フミ 新日本からのリースのようなかたちでUWFのリングに上がった藤原さんは、UWF旗揚げシリーズ最終戦の蔵前国技館のメインイベントで前田日明と一騎打ちを行ないます。「テレビに映らない前座レスラー」であるはずの藤原さんがいったいどうやって国技館のメインイベントに出ることができたのか。柳澤さんは、プロレスを知る者なら誰もが頭に思い浮かべる1984年2月3日「雪の札幌テロリスト事件」に触れていないんです。あのときの生中継で長州力を襲い「テロリスト」と呼ばれるようになった藤原喜明だったからこそ、UWFでもメインイベンターとして成立しているんです。この本の論調でいうと、昨日まで無名だった前座レスラーがUWFでいきなりスターになったというストーリーにしたいんだろうけど、まったくの誤りです。

 

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