【黒歴史ファイティングオペラ】若鷹ジェット信介――ハッスルの最期を看取った男

沈みゆくハッスル丸の船内に最後まで残った船員・若鷹ジェット信介インタビュー。ゼロゼロ年代のプロレス界に大きな風穴を開けたファイティングオペラ『ハッスル』はどのように滅びていったのか? 『ハッスル』では選手兼広報として活躍し、現在は品川で飲食店を経営する若鷹に13000字でたっぷりと語ってもらった! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!
 

 

若鷹 今回は『ハッスル』の死に際についてのお話だということで、よくぞ来てくれました。結果看取ったかたちに一番近いのが僕なんですが、実際に聞きに来られたのはこれが初めてです(笑)。
 

――『ハッスル』の最後を看取ってたんですね(笑)。若鷹さんは『ハッスル』では裏方もやられていたんですよね。


若鷹 はい。役職は広報じゃなかったかなあ。裏側のこともけっこう知ってることも多いですよ。


――『ハッスル』のスタッフに A さんっていたじゃないですか。もともと DSE (PRIDEの運営会社)の人間で途中から『ハッスル』に移った。
 

若鷹 はいはい。僕が入社してからの『ハッスル』は山口(日昇)さんとAさんの2人がやっていたようなもんですね。


――あの人も『ハッスル』の裏側に詳しいですよね。ある意味で山口さん以上に。


若鷹 そうですね。ただ、 Aさんに『ハッスル』の話を聞いたら、きっと山口さんへの文句しか出てこないと思いますよ(笑)。


――取材したいんですけど、書けない話のオンパレードになりかねないのでやりづらいんですよね。


若鷹 でしょうね(笑)。ボクはAさんにもかわいがってもらっていて、いまだに連絡を取り合ってたりするんですけどね。


――Aさんって『ハッスル』の負債を背負って、最終的に自宅も取られちゃったんですよね。


若鷹 あの人は『ハッスル』のメインスポンサーだった京楽さんともいまだにお付き合いしていて、『ハッスル』の負債は「仕事で返してる!」ってよく聞かされていましたよ。


――『ハッスル』は失敗したけど、 Aさん自身の信用は失っていないという。それも凄い話だなあ。


若鷹 むしろ信用上がってるんじゃないですかね。


――山口さんはどうなんですかね?


若鷹 いやあ、そこは知らないですけど、山口さんは顔を会わせられない人がいっぱいいるって話しですけどね(笑)。


――ハハハハハハハハ! ハッスルには京楽、榊原さん、エンターブレイン、吉本興業が関わってたんですけど、みんな口が重いんですよね。


若鷹 『ハッスル』だけは黒歴史になってるんだ(笑)。


――まず若鷹さんのレスラー人生を遡りたいんですが、『ハッスル』の前にゼロワンでデビューされましたけど、欠場期間が長かったですね。


若鷹 実際まともに活動していたのは1年弱です(苦笑)。 2002年の5月にデビューして、 2003 年の5月にヒザの靭帯を断裂しちゃたんですよ。破壊王(橋本真也)も同じ日に同じケガをして、かなり大ごとになったんですど、ボクの場合はみんな「おまえは大丈夫だろ」みたいな感じで(笑)。


――「根性で直せ!」と(笑)。


若鷹 根性論がギリギリ残っていた時代だったんですね。最終的にケガをしてから1年半くらい経ったときに「もうこれは本当にダメだ」ということで手術をして休ませてもらったんですよ。そこから 14ヵ月くらい休場して。


――長期欠場ですね。


若鷹 トレーニング復帰6ヵ月、試合復帰が1年という手術で。靭帯再建手術をやるとそれくらいのプランになるんですね。それで復帰となるんですけど、復帰戦だけやって、すぐにアメリカに海外遠征に行かせてもらったんですよ。でも、向こうでもまたケガをしちゃったんです。


――あらら。


若鷹 肩を脱臼して。あと肺気胸の手術もしましたね。急に肺の片方が潰れちゃって。それで大半の期間を休養に費やして、結局なんの成果を上げることなく、とりあえず帰国することにしたんです。それでそんな状況なのに、たいそうに凱旋試合が予定されちゃったんですよね。さすがにちょっとお断りしようと思ったんです。なにせ肩を脱臼して何日も経ってない。でもふたを開けると、その凱旋試合というのがボクと大谷(晋二郎)さんが組んで、田中(将斗)さんと佐々木健介さんとやるという超破格のカードだったんです。そんなの断れないじゃないですか、ね(苦笑)。


――無理して出ちゃったんですか?


若鷹 はい。で、その試合で肩を再脱臼です……。そこからまた休むことになるわけなんですけど。


――そのとき橋本さんはまだご健在だったんですか?


若鷹 いえ。代表は、初めの長期欠場のときに亡くなっていて、ゼロワンはZERO1MAXという団体になってますね。


――『ハッスル』はもうありましたよね。


若鷹 はい。で、その海外後の欠場時に、坂田亘先輩から「おまえもそろそろ『ハッスル』に来いよ」と誘ってもらったんです。もともと坂田さんには凄くかわいがってもらってたこともあって、坂田さん的にも、僕の当時の状況を憂いてくれてたんじゃないですかね。とはいえ ZERO1MAX を裏切るわけにはいかないじゃないですか。


―― ZERO1MAXは『ハッスル』と業務提携もしてましたし。


若鷹 そうなんですよ。けど、なんていうんですかね、そこはプロレス界特有の緩さから「なんとかなるんじゃないかな〜」なんて思っちゃったんですよ(笑)。


――移ってもいいんじゃないかと気軽に考えてしまった(笑)。


若鷹 それは大きな間違いだし、筋違いも甚だしくて。それはいまだったらよくわかるんですけど、当時はまだ若かったので。若かったと言ってもすでに 30歳手前だったんですけどね。


――でも、将来を考えたくなる年齢ですね。


若鷹 そうなんです。チャンスはもらったけど、ケガで逃してきたわけで……。それで気持ち的に傾いたんだけど、でも行き先が業務提携先って無理じゃないですか。さすがの坂田さんも「そのまんま『ハッスル』に移るわけにはいかないだろう」ってことで。そこで出てきたのが、代官山で坂田さんが開店した居酒屋ダイニング「わたる」ですよ。気づいたらオープニングスタッフになっていました(笑)


――『ハッスル』移籍のはずが(笑)。公式発表では、ZERO1MAX退団ではなく引退でしたよね?


若鷹 キャリア上は引退したことになったんですけど、じつはいろいろあって。(中村)祥之さんとやめる・やめないで大喧嘩になったんです。そりゃ怒りますよね。長い間休ませて、海外も行かせて、僕からはなんの回収もできずに、自分勝手に「辞めます」ですから。でもボクは抜けてフリーというスタンスでやっていこうとしたんです。これ以上、給料をもらうわけにいかないし、身体も休めたい。明るい未来が見えない、と。で、怒った祥之さんが「やめるなら引退だ」と。そのとき事務所にいたスタッフに「いますぐマスコミに電話して引退会見をやると連絡しろ」と。そのスタッフが悲しい顔でマスコミに電話していたことをとてもよくおぼえてますねぇ。


――それでほとぼりが冷めるまで「わたる」の従業員として働いていたんですね。


若鷹 ボクも実際に身体を痛めていたのでその休養と。あと坂田さんの店を手伝う条件はトレーニングやプロレスは優先していいということでしたし、あそこで働くことで人間関係も広がりましたし、結果よい充電期間になりましたよ。


――「わたる」には一流芸能人が集っていて凄く流行ってましたよね。


若鷹 はじめからしばらくは凄かったですね。でも料理長が独立したあたりからは……。


――料理長次第でそんなに違うんですね。


若鷹 ですね。料理自体が凄く変わりましたもんね。あと、ボクが抜けたことも大きかったんじゃないいかな(笑)。


――「わたる」の大黒柱でしたか(笑)。


若鷹 はい、じつは(笑)。


――「わたる」にいた頃から『ハッスル』に関わってたんですよね?


若鷹 はい。その頃のボクは『ハッスル』で、とあるモンスターの中身をやっていました(笑)。


――もしかして「シー!」の掛け声で人気者だったモンスターですか?(笑)。


若鷹 そこは濁します。でもブレイクさせたのはわたしです(笑)。

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作/アカツキ


――ZERO1MAXをやめてから何年経ってたんですか?


若鷹 引退発表から1年半後のことですね。
 

――まだZERO1MAXと『ハッスル』は業務提携中ですよね。問題はなかったんですか?


若鷹 そうなんですけど。その「わたる」って『ハッスル』の首脳部が酒を飲みがてらよくミーティングをしてたんですよ。それでボクも話を小耳に挟むんですね。


――「わたる」は、芸能界のたまり場でもあり、『ハッスル』のたまり場でもあった。


若鷹 ボクは休んでいるとはいえプロレスラーだから、酒の席ではあるけど、山口さんから意見を求められることもあったんです。で、話をよくよく聞くと、 ZERO1MAXのコントロールが効かなくなってきてた、と。いよいよそういう時期だったんですね。


――業務提携してるけど、団体間はギクシャクしていたわけですね。


若鷹 ボクは ZERO1MAXの内部にいたから、とくに若い選手側が『ハッスル』の仕事に乗り気ではないことは知ってたんです。


――でも、 ZERO1MAXにとって『ハッスル』との業務提携は金銭的には大きい仕事ですよね。


若鷹 でしょうね。だから祥之さんやオッキーは先頭に立って頑張ってましたよね。


――中村さんは出役としてもいろいろとやられてましたね。選手たちは『ハッスル』の何が不満だったんですか?


若鷹 うーん、やっぱり自分たちがやりたいプロレスではないってことじゃないですか。で、僕から見ると『ハッスル』側のほうが、 ZERO1MAXにかなり気を遣ってるように見えました。仕事を振ってる側にも関わらずです。そんな感じでモヤモヤしてる時期に、インリンさんの件が……。


――ああ、インリン様と『ハッスル』元社員の熱愛報道ですね。『ハッスル』とその元社員はあまりよくない関係だったそうですけど、その人間を ZERO1MAX が受け入れてたんですよね。


若鷹 何があったかは知らないんですが、ただ祥之さんは頼られると受け入れちゃう性格なんだすよね。そこらへんの関係も両団体がギクシャクする原因のひとつだったんですけどかねえ。


――そこでインリンさんの件が『FLASH』で袋とじスクープされた。それがトドメとなって『ハッスル』とZERO1MAXの関係が切れることになったんですね。


若鷹 そうですね。


――その頃から『ハッスル』の雲行きが怪しくなっていきましたけど、若鷹さんが「わたる」にいた頃は景気は良かったんですよね。


若鷹 いやあ、あの頃の『ハッスル』はホントに凄かったですね。


――「わたる」の売り上げにだいぶ貢献してたとか。


若鷹 一晩でン十万とか、山口さんが普通に支払いをしてましたからね(笑)。


――一晩で!(笑)。


若鷹 『ハッスル』の打ち上げも「わたる」でよくやってましたからね。一番凄かったのは、『ハッスル』の大阪かなんかの大会があって、日帰りで東京に帰ってくるスケジュールだったんですけど。新幹線が途中の浜松か静岡で止まっちゃったこともあって、新幹線中のお酒を飲み尽くしちゃって。それでベロンベロンになった選手、スタッフ一団がお店に雪崩れ込んできたこともありましたね(笑)。


――それを全部経費で落とすんですからWJばりのバブルですねぇ。


若鷹 会計いくらでしたかねえ(笑)。ボクが某モンスターをやり始めた頃はまだよかったんですよ。それが2007年4月のときだったんですけど。明確に「あれ……?」って思ったのは、 2009年1 月の後楽園ホールからですね。お客さんが異様に減ったんですよ。


――何があったんですか?


若鷹 わからないです。でも、あのときは本当に気になりました。明確に減りましたから。結局その年の6月7 月頃に京楽がスポンサーから降りたんじゃなかったかなあ。ボクはその直後、 9月に『ハッスル』に入社したんですよ。


――最悪のときじゃないですか!(笑)。


若鷹 そうなんですよね(笑)。ボクが入ったのは『ハッスル』の事務所がエンターブレインから引っ越したタイミングなんですね。


――そういえば、事務所は『ハッスル』に出資していたエンターブレインのビル内にありましたね。


若鷹 そこから『ハッスル』道場、いまのゼロワン事務所のある竹芝に引っ越したんです。引っ越し終わったら、大半のスタッフが引っ越しとともにいなくなってました。


――『ハッスル』の時代を3つに分けるとすれば、 DSE時代、エンターブレイン時代、そして没落期ですけど。若鷹さんは没落と同時に……。
 

若鷹 乗船員が続々と船から降りてるんですけど、ボクは船員として乗ってしまったんですよね(笑)。


――不安は感じませんでした?


若鷹 深く考えてなかったんですよねぇ。あのとき、いやらしい話ですけど、『ハッスル』と額面月 30万で契約したんですよ。山口さんが「30万でいいだろう」ってザックリと。そしたらなんと初月から未払いでした(笑)。


――ハハハハハハハハハハ!


若鷹 ギリギリ泥船じゃないと思ってたんですけどね。それからクォンタムジャンプジャパンがホワイトナイトとして表れたんですよ。


――現パンクラス代表の酒井正和さんの会社ですよね。


若鷹 でもその酒井さんが入れたお金も、瞬時に溶けるような経営状況だったんでしょうね。


――やっぱり京楽が引いたのが大きかったんですよね。


若鷹 すべてじゃないですかねぇ。
 

――京楽って『ハッスル』に相当お金を払ってましたよね。最低でも月ウン千万はいってたんじゃないかって。


若鷹 『ハッスル』博多大会があったときに、坂田、山口、 Aさんという『ハッスル』上層部の 3 人とタクシーに乗ったんですけど。そのとき車内で「京楽から◯◯円入るからなんとかなるだろう」って話をしてことがあって……。


――ああ、緊急融資だ。ドラゴンズ新外国人ビシエドを雇えますよ!(笑)。毎月けっこうなお金が入ってたのになぜ経営が……。

 

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