追悼ジミー・スヌーカ……スーパーフライの栄光と殺人疑惑■「斎藤文彦INTERVIEWS」

↑ブロディ、スヌーカ、斎藤文彦氏の3ショット。1885年5月頃、新日本プロレスのシリーズに参加したときに『週刊プロレス』がスタジオ撮影。

 

 

80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回のテーマは、“スーパーフライ”ジミー・スヌーカです!イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!

 

 

 

――日本でも活躍した“スーパーフライ”ジミー・スヌーカが胃癌により1月15日にお亡くなりになりました。


フミ スヌーカは“プロレスラーが憧れるプロレスラー”でしたね。田中将斗選手や外道選手なんかが「スーパーフライ!」と叫びながらコーナーポストから飛ぶのは、スヌーカへのトリビュートでしょうね。スヌーカは日本では80年代に活躍しましたが、当時の日本で一番有名な外国人レスラーはスタン・ハンセンとブルーザー・ブロディ。スヌーカは番付でいえば、この2人より格が落ちて見えていたと思うんですが……。


――大関という感じですね。


フミ でも、アメリカにおけるステータスや知名度でいえば、スヌーカのほうがハンセンやブロディより全然上なんです。それはWWEが「WWF」と呼ばれていた時代のニューヨークでスヌーカが一世を風靡したからです。その象徴的な試合として、1983年10月17日マディソン・スクエア・ガーデンで行なわれたドン・ムラコとの因縁完全決着金網マッチがあります。あのときスヌーカがケージ最上段から10メートルダイブした姿は、プロレス史に残る名場面としていまだに語り継がれている。その会場で当時大学生だったミック・フォーリーや、10代だったトミー・ドリーマーが試合を見ており、スヌーカのダイブを目撃してプロレスラーになることを決意したんです。


――後世に影響を与える名勝負だったんですねぇ。


フミ 生い立ちから話すと、スヌーカは南太平洋に浮かぶ小さな島国フィジー島の出身。1943年5月18日生まれだから戦中派ということになりますし、ブロディよりも歳は3つ上なんです。日本のファンにはおなじみだったブロディ&スヌーカ組といえば、体格的にもブロディのほうが大きいし、ブロディが親分格に見えますけど、歳もキャリアもスヌーカのほうが上なんですね。ということは、ハンセンより年齢は6つ上ということにもなる。
 

――ブロディやハンセンの先輩だったんですね。

フミ スヌーカは15歳のときに家族と共にフィジーからハワイに移り住み、ボディビルで「ミスターハワイ」になりましが、そのときに通っていたジムの経営者がディーン樋口という日系アメリカ人の方で、リングネームはディーン・ホーというプロレスラーだったんです。ディーン・ホーは70年代前半のWWWF(現WWE)でタッグチャンピオンになったり、東京プロレスや国際プロレスのリングにも上がりました。そのジムはプロレスラーのたまり場だったこともあったので、スヌーカは“カウボーイ”フランキー・レーンというレスラーにスカウトされたんですね。デビューしたのは1969年、昭和44年のこと。プロレスデビューは26歳と遅いんです。


――オールドルーキーだったんですね。


フミ 最初はハワイで試合をしていたんですが、最初にブレイクしたのはオレゴン州なんです。ドン・オーエンが主宰するパシフィック・ノースウエスト・レスリング。アントニオ猪木さんがアメリカ武者修行時代、カジモトというリングネームで長期滞在した団体です。西海岸といえば西海岸なんですが、オレゴンはカリフォルニアほどは都会ではない。オレゴンとワシントンを中心としたローカル団体で所属選手は15人くらい。人数が少ないからカード編成も当然マンネリになりますが、プロレスのベーシックを学ぶ場としては最適なんですね。同じ相手とシングルマッチやタッグマッチで戦い、抗争が発展していくとランバージャックデスマッチ、ケージマッチまで辿り着く。


――小さなテリトリーで同じ相手と戦うから、ストーリーのフルコースを勉強できる場所だったんですね。


フミ スヌーカだけではなく、メジャーシーンに行く直前のレスラーがオレゴンで修行を積んでいます。スヌーカと日本の繋がりで言えば、初来日は71年、キャリア2年で日本プロレスに来てるんですね。そのときはあまり注目はされませんでしたけど、スヌーカはポリネシアンじゃなくてネイティブアメリカン、つまりインディアンの衣装でリングに上がってるんですよ。


――えっ(笑)。


フミ なぜかというとタッグパトーナーがサニー・ウォー・クラウドというインディアンレスラーだったからなんでしょうね。その後オレゴンを卒業したスヌーカはキャリアを積んで、NWAミッドアトランティック地区、いわゆるジム・クロケットプロモーションズというNWA主流派のリングで活躍するようになります。その頃のNWAはハーリー・レイスが世界チャンピオンで、スヌーカはその次のベルトと位置づけられたUSヘビー級王座をリック・フレアーと争っていたんです。そして当時のNWAミッドアトランティック地区のドル箱カードと言われていたのが、スヌーカとリッキー・スティムボートとの因縁マッチ。


――フレアーやスティムボートと渡り合うってスター候補ですね!


フミ その定番カードの評判は海を超えて日本にも伝わってきていたので、81年に馬場・全日本がスヌーカvsスティムボートのドル箱カードごと直輸入したんです。そこから日本でも一流レスラーとして認知されたスヌーカは、全日本旗揚げ10周年記念のジャイアントシリーズにも呼ばれますが、そのときのメンバーが超豪華なんですよ。ザ・ファンクス、ブロディ、マスカラス、タイガー・ジェット・シンに上田馬之助、ハリー・レイス、特別参加でブルーノ・サンマルチノとリック・フレアーも来ている。


――凄い!!(笑)。その中にスヌーカもいた。


フミ そのままスヌーカはブロディとのコンビで81年暮れの世界最強タッグに参戦。決勝戦でファンクスを破って優勝したんですけど、そのときの一番の思い出のシーンはスタン・ハンセンの乱入になっちゃうんですよね。


――当時新日本の外国人エースだったハンセンがブロディ&スヌーカのセコンドとして電撃登場。そのまま全日本に移籍するという衝撃にかき消されちゃいましたねぇ。


フミ 白いカウボーイハットを被ったハンセンが私服姿のままブロディ&スヌーカ組のセコンドとして登場しました。そして場外乱闘になるとスヌーカに加勢してテリーにウエスタンラリアットを見舞った。リング上ではブロディがキングコングニードロップでドリーさんからフォール勝ち。ドリーさんから完璧に3カウントを取るってなかなかないことですよ。 


――起こり得ないことが次々に起きた。


フミ 試合後にブロディとハンセンが抱き合って喜ぶの後ろにスヌーカの姿はあったんです。そうするとスヌーカはブロディの子分のように見えてしまったし、ハンセンにパートナーの座を奪われてしまったかのようにも見えた。
 

――あそこで日本における格付けがされちゃったところはありますね。
 

フミ でも、スヌーカ本人は翌82年1月から本格的にWWFに参戦することになるんです。当時のWWFはいまのビンス・マクマホンのお父さん、シニアがやっていて、スヌーカは最初は大ヒールとしてチャンピオンのボブ・バックランドに挑戦するわけですが、スヌーカのピークはこの82年と83年の2年間に訪れます。ヒールだったのにあまりにも人気が出すぎてベビーフェイスに転向。それはWWFからすれば計算外な出来事なんでしょうけど、何度目かの対決のときからはバックランドがブーイングを食らって、スヌーカが大歓声を浴びてしまったんです。


――いったい何が起きたんですか?


フミ 単純にスヌーカのほうがカッコイイし、見てて面白かったんでしょうね。


――あー、たしかにビジュアルはバックランドよりカッコイイですね(笑)。


フミ 動きも違った。いまだったら、エプロンからスワンダイブ式にトップロープに立つ動きは珍しいものではないんですけど、ボディビルダーのような筋骨隆々の肉体で、裸足のスヌーカがトップロープの上にバランスよく飛び乗っちゃうのは当時は衝撃だったんですね。そして「パン!」と手拍子を一度打ったあとに宙を舞ってフライングボディアタックや手刀を落としたり、トップロープからリングの中央より向こうに寝ている相手にボディプレスをやったりする。観客も早くスヌーカがスーパーフライをやらないかなと待ち望むようになったんです。

 

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