【90年代・灰色の狂気】木村浩一郎「FMWとリングスで俺はこの業界をナメてしまったんですよ」

90年代のプロ格シーンを検証する「総合格闘技が生まれた時代」シリーズ。今回語っていただくのはサブミッションアーツレスリングの王者の肩書きを引っさげてプロレス界に登場した木村浩一郎だ。FMWでプロレスデビューした木村浩一郎は、インディ団体W☆INGを経てリングス参戦という異次元な流浪をはたして、そこで物議を醸す初試合を行なった。そしてバーリ・トゥードジャパンでのヒクソン・グレイシー戦、猪木UFO軍団との遭遇、伝説のプロレス団体WJと、他に類を見ない格闘技人生を歩んできた。数々の逸話から垣間見える、腕っぷしの圧倒的自信とともにあの時代を振り返ってみよう。前後編15000文字インタビュー。
 

 

木村 なんでいまさら俺のインタビューなの? 


――90年代総合格闘技を振り返るインタビューシリーズをやってまして木村さんのお話を聞きたかったんですけど、連絡先がわからなくて。


木村 もう昔の連中とはぜんぜん連絡を取ってないんだよ。


――それで元・骨法の北條(誠)さんにインタビューをしたら木村さんと接点があるようだったので連絡先をうがかいました。取材するにあたって昔の木村さんのインタビューを読み返したんですけど、けっこう踏み込んでますよね。


木村 俺のインタビューが?


――「これは表に出していい内容なのかな……」って感じで(笑)。


木村 そんなに凄いことを言ってた?(笑)。そういえば、そのインタビューがもとで◯◯さんに文句を言われたんだよな。ぜんぜん気にしなかったけど。だって何も知らない外部の人間が言ってるわけじゃないからね。当事者が言ってるわけだし。


――木村さんは90年代のプロレスや格闘技どちらにも深く関わってますよね。


木村 どうなんですかね。そこは意識してたわけじゃなくて自分が好きなことをやってただけですから。


――そもそもあの当時大学生がプロレスデビューするって異色だったじゃないですか。


木村 そうですよね。さきがけですよね(笑)。でも、最初に出たのは格闘技だけど大道塾なんですよ。北斗旗に個人エントリーしたのが始まりで。高校のときにレスリングをやってて沖縄国体で3位とかになったけど、大学に行ってまでレスリングをやろうとは思ってなかったんです。それはなぜかというと頑張ってもオリンピックに行けるわけじゃないから。高校で必死こいてやったのに大学でまたつらい思いするのはイヤだったし。それで大学にいた頃、たまたま大道塾の北斗旗があってルールで投げが許されている。「これは俺でもいけるんじゃないか」ってことで個人エントリーしたらオッケーになって。


――通るもんなんですね。


木村 そこでのちに俺が関わるサブミッションアーツレスリングの麻生(秀孝)さんが大道塾と業務提携してたじゃないですか。麻生さんは俺と同じ大東文化大学出身だから大学つながりということもあって、書類を見た東(孝)先生が麻生さんに相談したら「面白そうだから出してみれば」という裏話があったんです。そんなことで俺の名前がメディアに初めて出たんですよ。


――それは大学何年生のときですか?


木村 大学1年か2年かな。1989年。それでのちに中量級で優勝する酒井(修)という選手と一回戦で闘ったんですけど。俺が案の定タックルで持ち上げたり投げたりして打撃はぜんぜん食らわなかったんですよね。でも、旗判定で俺の負けになったんです。そうしたら会場中からブーイングが起こって。


――この判定はおかしい、と。


木村 代々木第二の会場。俺も判定に納得いってなかったんですよ。ダメージを負わしてるのになんで負けなんだ?と。それで本部席の東先生に食ってかかったんです。


――あの東先生に!


木村 そうしたら横にいた麻生さんが「面白い奴だな。ウチに来ないか」ってことでサブミッションアーツレスリングに行くようになったんですよ。


――当時のプロレスファンにはサブミッションアーツレスリングは馴染み深いんですけど。あれってどういうスポーツだったんですか?


木村 組み技の集大成です。ポイント制で帯を付けて、相撲でいうところの押し出しのルールもあって。「ここが崖だったら死んじゃうだぞ」というか。そこで3連覇させてもらったんですけどね。で、その頃、麻生さんと大仁田(厚)が闘う話があったんですよ。


――それも凄い話ですね(笑)。


木村 それはいつのまにか立ち消えになったんだけど、そこから「FMWに出てみる?」っていう話になって。大学の夏休みに1シリーズだけ出ることになったんですよね。それがプロレスデビュー。


――プロレスの練習はされてたんですか?


木村 ぜんぜんやってない(笑)。


――あらら。麻生さんとのつながりがあるとはいえ、プロレス未経験の大学生をよく出しましたね。


木村 だってその頃のFMWは素人みたいなのがいっぱい上がっていた時代じゃないですか。それで一週間で9試合やったかな。最終戦でリー・ガクスーのベルトに挑戦して負けるというね。その試合レポートが『ゴング』と『週プロ』で1ページ載ったんですけど。それが姉貴に見つかっちゃって親父に怒鳴られるという(笑)。「おまえは大学に行って何をやってるんだ!?」と。


――家族からすればビックリしますよね(笑)。


木村 FMは1シリーズとはいえ、いろいろありましたよ。最終戦の茨城で(ターザン)後藤と徳田(光輝)がリング上でガチケンカしたり。


――何があったんですか?


木村 何があったかは知らないですけど、お客さんが見えないところまで来たら普通は収まるじゃないですか。でも、控室に戻ってきてもやめないからみんなで止めたんですよ。


――ターザン後藤さんってFMWの現場監督ですよね?


木村 FMWの長州力じゃないですけど、そんな感じ。それで9試合いえどもプロレスをやってみて、俺が思い描いていた世界とは違ったんですよね。もうちょっとちゃんとした世界だと思ってたんですよ。


――中を覗いてみたら幻滅しちゃったんですか。


木村 サブミッションアーツでチャンピオンになって格闘技が強いという触れ込みだったけど。俺はプロレスが初めてなのに何も教えてくれないし、やってる人たちもプロレスというものを軽々しく扱ってる感じが伝わってきたんですよね。ちょっと力を入れれば後藤に泣きつくバカもいて。「木村が本気でやってきた!」とか意味がわからないですよ。だって身体を張るのがプロレスラーでしょ。急所を外してもバチバチやるもんだと思ったんですけどね。だからリー・ガクスーと試合をやってたほうが楽しかったです。アイツもバチバチくるし。


――プロレスの基本がない格闘家同士ということもあって。


木村 そうそうそう(笑)。当時のFMってスパーやっても誰も俺にはかなわなかったし、後藤は俺と一切スパーリングをやらなかったですね。俺のことを知らない◯◯◯は勘違い野郎で、当時俺の身体が細かったから「スパーやろう」と言ってきて。まあガチガチにイジメてやりましたけどね。


――木村さんってイケイケですね(笑)。


木村 やっぱ弱い奴にえらそうにされたくないんですよ。


――ちなみにFMWのギャラってどれくらいだったんですか?


木村 1試合、税金1000円天引きの9000円。お金に関してもそんなに魅力はないじゃないですか。初っ端が新日本とかちゃんとした団体だったら、ちゃんとプロレスに向き合ってたかもしれないですけど。FMだったからプロレスをナメてしまったところはあったんでしょうね。いま振り返ってみて俺はこの世界を2回ナメてるんだなって。1回目はFMW、2回目はリングス。長井(満也)戦ね。


――リングスの長井戦は卒業試験を控えて練習してなかったのにそこそこ健闘してしまったという。


木村 あの試合は大学の卒業試験前でぜんぜん練習できなかったんですよ。それなのに毎日練習してる長井と互角に闘えたことでナメちゃったんですよね。俺はそこで負けたらリングスジャパンに入る気持ちはあったんです。イチから格闘技をやろうかな、と。でも、蓋を開けてみたら「……なんだよ、リングス」って感じで。


――しかし、FMW、W☆ING、リングスという流れも凄いですよね。しかも大学生がですよ(笑)。


木村 大学生なのに発言が物議をかもしましたからね。「格闘プロレスは簡単だ。プロレスのほうが難しい」ってことを『ゴング』のインタビューで言ったんですよ。プロレスを馬鹿にする奴がいるけどやってみろ、と。当時は修斗や格闘プロレスがプロレスにいろいろ言ってたじゃないですか。俺はプロレスも格闘技も両方やったから、プロレスの難しさがわかるんですよ。だってUWFとか格闘プロレスは基本スパーリングだから。


――当時UWFはどう見てたんですか。


木村 ファンの頃はUWFをガチだと思ってましたね。俺が高校2年から大学1年くらいのときがUWF絶頂期で。前田さんが裏アキレスでジュラルド・ゴルドーに勝ったでしょ。でも、あのかたちを何度やっても極まらないんですよ。そのへんで「何が違うのかな。わざと外してるのかなあ」と考えてたんですけど。でも、実際にサブミッションアーツレスリングに入って勉強したらすべてわかって。


――当時は格闘プロレスの人気は高かったわけですから、そういった発言は勇気が入りますね。


木村 U系絡みの人からはいろいろ言われましたよ。だって格闘プロレスを否定をしてるわけだから。でも当時は格闘プロレス全盛だったかもしれないけど、俺らに普通のプロレスを求める時代でもあったじゃないですか。俺は「それはできない」と言ったんです。もっと練習を積んで人様に見られても恥ずかしくなかったらやるけど。当時の俺は格闘色は出してましたしね。


――W☆INGでは齋藤彰俊さんと徳田さんの3人で「格闘三兄弟」という触れ込みでしたね。


木村 齋藤彰俊あの人もトンパチだから(笑)。俺より年上なんですけど、初対面の第一声が「木村くん、寝技より打撃のほうが強いと思うんだ」って言われたんです。それでカチンときちゃって(笑)。俺は寝技のエキスパートという触れ込みだったじゃないですか。だからスパーでバチバチ極めたんですけど。俺の場合はタックルでもできるから打撃を怖がらないで踏み込めたんですよね。いまでいう総合格闘家の走りみたいなもんで。


――レスリングベースで関節もできるプロレスラーはほかにご存知でした?


木村 当時はいないんじゃないですかねぇ。修斗にはいっぱいいたんでしょうけど。それにいまみたいにメジャーとインディが交流することもないから、よくわかってない人はいっぱいいましたよ。WJに行ったとき◯◯は俺のことを知らないから「スパーリングやるぞ」と言ってきて。そ足払いしてから腕十字をあっという間に極めてやったんですよ。それ以来、俺とは一切スパーをやってくんなかったす。WJといえば、安生さんとやったときはヤバかったあ……。安生さんはホント強かった。


――さすがUWFのポリスマンですね。


木村 当時は安生さんは前田さんを殴った件の流れがあったから、リングスに上がってた俺のことを「前田派」と呼んでたんですよ(笑)。噂で「安生さんは凄い強い」と聞いてたんですけど、実際に自分でやってみないとわかんないから「お願いしま〜す!」とふざけた感じでやってみたら、もうね、ことごとく返された。ヒョイヒョイと。強かったなあ……(しみじみと)。安生さんの悪口言う奴がいるんだったらやってみって。あんなヘラヘラしてて本当に強いんだから。


――話は戻りますけど、どういう経緯でリングスに参戦することになったんですか?


木村 第2次UWFが三派に分裂して前田さんはひとりになっちゃったでしょ。それで日本人のスパーリングパートーナーを探してたみたいんですよ。その頃、リングスには治郎丸(明穂)さんという方がいて。


――当時前田さんのブレーンだった方ですよね。


木村 次郎丸さんはサブミッションアーツレスリングの名前を付けたりして、麻生さんとのつながりがあったんです。それで麻生さんを通してスパーリングパートナーの打診をしてたんですよ。でも、麻生さんはそれを俺に一切知らせてくれなくて。そんとき俺はW☆INGに上がってて、それで麻生さんにもお金が入ってたから。


――麻生さんはマネジメントとしての立場があったんですね。


木村 それで大学に歩いて行くときに友達の家に寄ったら、近くのコンビニに偶然、次郎丸さんがいたんですよ。そうしたら凄く怒ってて。「こっちはおまえのことを思って推薦してるのに。前田もオッケーしてるんだから」って。こっちはそんなこと知らないからビックリですよ。


――大スターの前田日明が待っているとは思いませんよね(笑)。


木村 そうそう(笑)。そんなことで晴れてサブミッションアーツレスリング所属としてリングスに参戦したんですよ。


――リングスデビューはグロム・ザザ戦ですよね。


木村 そこで俺が◯◯◯を破ったという話になったんだよね。


――デビュー戦からとんでもないというか……(笑)。昔のインタビューだと次郎丸さんに命令されたことになってますけど。


木村 そうそう。次郎丸さんに騙されたというか。試合開始30分前くらいに「浩ちゃん、今日はコレで行っちゃって」って言われて。


――30分前に(笑)。


木村 「前田には話を通してあるから」ってことで。


――それってザザは知ってるんですか。


木村 いや、知らないですよ。


――……それ、よくやりましたねぇ。


木村 俺も当時若くてイケイケだったから。いま思えばザザがゴルドーみたいな奴だったらヤバかったですよね。


――修羅場になっていたというか。


木村 いま思えばだよ。だって仕掛けちゃったのは俺なんだから。


――でも、ザザはヒカルド・モラレスをバーリ・トゥードで封印しちゃうくらいのオリンピックレスラーですよね。そんなに大物に大学生が仕掛けるとか何をやってるんだって話で(笑)。


木村 ホント笑っちゃうよね(笑)。ホントにイケイケだったんだなあ……。


――それは格闘プロレスはあまりやる気がなかったこともあるんですか?


木村 というわけでもないよ。次郎丸さんから「やれ」と言われたからやっただけで。もともとUWF好きの前田日明ファンだったんだから。


――競技じゃなかったことに不満はなかったんですね。


木村 自分でどう消化したのかどうかは忘れたけど、結局スパーリングみたいな試合をやってもお客さんは喜ばないから。そうことじゃないですか。試合では技術は見せる。いざとなったら刀は抜けるけど、お客の前では試合内容で満足させる。だから俺はいまでもお客を呼べる奴がいちばん強いと思ってるから。でも、やられたらやる。仕掛けられたら仕掛ける。これは俺が当事者じゃないからわからないですけど、橋本真也が小川直也にやり返すことができたら、ひょっとしたらあの試合はどうなっていたかはわからないじゃないですか。そこはハートの強さが求められるわけだし。


――小川直也が橋本真也にシュートを仕掛けたと言われる“1・4事変”ですね。


木村 俺はザザ戦後に前田さんから40分お説教(笑)。マジで。まさか次郎丸さんに言われたとは言えないから、そこは黙ってて。だって前田さんの怒りは尋常じゃなかったから。


――主催者からすれば許される行為じゃないですね。


木村 でも、俺はそう言われたからやっただけで。試合中に熱くなってキレたわけじゃないから。


――ザザはどうでした?


木村 力が凄く強かったですよ。最後ネルソンをやられてバキバキって音が鳴りましたから。それで「死んじゃう!」と思ってギブアップしたんですけど。でも、ザザがいちばん面食らったんじゃないですか。

――そりゃそうですね(笑)。


木村 ザザが片足タックルに来たところに頭を押さえてヒザをドカーンと入れましたから。


――……よ、容赦しなかったんですねぇ。


木村 こっちだって行かないと。


――レフェリーはどんな反応だったんですか。


木村 そこは次郎丸さんがちゃんと言ってた。



――次郎丸さんはどういう意図があったんですかね。


木村 ガチをやりかった。それだけでしょ。


――それでコントロールできる木村さんを指名して。


木村 じゃないですか。若林(太郎)さんは俺とザザの試合を見てリングスに入ったんですよ。


――のちに修斗の番頭と呼ばれる若林さんですね。


木村 リングスの初期は次郎丸さんと若林さんとふたりでいろいろやっていて。あのふたりは大学の先輩後輩だから。若林さんがまだ電通にいる頃、次郎丸さんが「ガチでやるから」って言ってたけど、若林さんは「そんなことはありえない」と思って見に来たら俺がザザと第一試合からホントにやってて。だからよく言われますもん。「浩ちゃんがあそこでガチをやんなかったら電通をやめなかったよ」って。


――そのあとの木村さんの試合はどうだったんですか?


木村 そのあとの長井戦もガチだし、実験リーグもガチだし、外人との試合もガチだし。俺の試合は全部ガチですよ。でも、俺らばっかガチなのは不満があってやめたんです。それでこんなにギャラが違うなんて馬鹿らしいよねってことで。


――リングスジャパン勢との技術交流はあったんですか?


木村 ないす。俺はずっとサブミッションアーツレスリングで練習してて。試合前にロシア人とスパーはやってましたよ。ヴォルク・ハンとかメチャクチャ強かったなあ。あと合同練習でヴォルク・ハンが突然トップロープに上がって「イノキスタイル!」って叫んでたんですよ。そうしたら前田さんが「ノーノー!ノー、イノキスタイル!」って止めててのは凄い面白かった(笑)。


――プロレスといえばそういうもんだと思ってたんでしょうね(笑)。


木村 で、さっきも話した長井戦は4年生の卒業試験前だったから。当時はバブル真っ只中でリングスのギャラもよくて、この試合で秒殺されたらリングスジャパンに入ろうかななんて考えてたんですよ。試験勉強ばっかりしてたし練習はできてなかったし。それでも戦えちゃんだからどうなのかなあって。しかも当時のリングスはバーリ・トゥードじゃなかったけど、俺がずっと上だったからね。タックルでぶっ倒して極めきれなくてスタンドに戻されて。それが22歳のときでしょ。その1〜2年後だからね、バーリ・トゥードが出てきたのは。ヒクソン戦は25歳のときだけど。


――リングスで続けたい気持ちはなかったんですか?


木村 もういいやって。お金もある程度もらえたし、夢もかなえたし。まあいろんな経験できたことだけでも面白かったんですけどね。そこそこ認められたこともあって、格闘技オリンピックで前田さんとエキシビジョンマッチもやらせてもらえたじゃないですか。あれは寝技はガチ、立ちはプロレス。それで前田さんに極められなかったから、そこでまた勘違いしちゃったんですよ……。

 

<後編へ続く>

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