WWEの最高傑作ジ・アンダーテイカー、リングを去る/「斎藤文彦INTERVIEWS」

80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回のテーマはジ・アンダーテイカーです!

イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!

 

 

――今月のテーマはジ・アンダーテイカー!……なんですが、アンダーテイカーは先日のレッスルマニアで引退したということでよろしいんですよね?
 

フミ はい。レッスルマニアのローマン・レインズ戦で引退したとボクは思っています。レッスルマニアって今年で33回目の開催なんですが、テイカーさんはそのうち25回も出場してるんです。途中でケガで出られなかったのが2回(94年、00年)あったんですけど。


――レッスルマニアの出場回数もさることながら、あのWWEにこれだけ長期在籍していることも恐ろしいことですよね。
 

フミ 本当のロングセラーですよね。たいていのレスラーは消耗して姿を消すか、レッスルマニアにだって何回か出る程度ですよ。ホーガンやジョン・シーナ、マッチョマンだってここまで長くは在籍していないですし。27年もWWEに上がり続けたテイカーさんは、WWEがプロデュースした最高傑作ということになりますよね。


――テイカーさんはデビュー当時から有望な選手だったんですか?


フミ もちろんです。テイカーさんが「パニッシャー・ダイス・モーガン」というリングネームで新日本プロレスに初来日したときに、ボクは『週刊プロレス』でインタビューしているんですが、アンダーテイカーに変身する前だから詳しいプロフィールを教えてくれたんです。そのときはまだキャリア3年だと言ってました。


――新日本のリングに上がったのは1990年3月のことですね。アンダーテイカーに変身するのは90年11月ですから直前。


フミ テイカーさんは高校まではホームタウンのテキサスに住んでいて、バスケットボールの奨学金でテキサス工科大学に進んだんです。大学ではスポーツ経営学を専攻。プロフットボールやプロバスケットボールのマネジメントに興味があって、クリニック分野も勉強していたそうです。


――それがどうしてプロレスラーになったんですか?


フミ プロレスに方向転換したわけではなく「最初から大学を出たらプロレスラーになろうと決めていた」と。当時のアメリカでプロレスラーになる人ってフットボールやバスケで大学に進んだけど、途中でやめて……というパターンが多いんですけど、テイカーさんは大学をちゃんと卒業しています。計画的に行動する人ではあると思うんですね。それで知人の紹介でダラスのバズ・ソイヤーの道場に通ったということです。


――若き職人肌レスラーのバズ・ソイヤーですね。


フミ 旧ソ連のアマチュアレスラーたちが新日本に参戦したときに、バズ・ソイヤーはアメリカのレスリング代表として出ましたよね。ナショナルチーム出身ではないんですけど、ジョージア州のチャンピオンだったんです。


――レスリングの心得もあるし、プロレスに初挑戦する旧ソ連勢の相手としては好都合だったんですね。


フミ ちなみにケン・シャムロックもバズ・ソイヤーからプロレスを習ってるんです。テイカーさんはダッチ・マンテル、ドン・ジャーディンからもプロレスを教わりました。


――いま一部で話題沸騰のダッチ・マンテルですね(笑)。


フミ その3人の中で最も影響を受けたのがドン・ジャーディンなんです。ドン・ジャーディンは覆面レスラーのザ・スポイラー、スーパーデストロイヤーの正体として有名ですが、長身のレスラーとして初めてロープ歩きをやった人なんです。
 

――ロープ歩きはテイカーさんの得意技ですけど、つまり……。


フミ ドン・ジャーディンが「君は背が高いからこの技を使いなさい」と伝授したんですね。テイカーさんのことをそれくらい気に入ってくれて手取り足取り指導しました。面白いことにテイカーさんのデビュー戦もマスクマンだったんです。


――そこもドン・ジャーディンと被ってるんですね。


フミ 理由を考えると、テイカーさんは赤毛の白人レスラーだったからじゃないかと。アメリカだと赤毛で肌が白い男性は、どうしてもかわいすぎちゃうんですね。だから赤毛の白人レスラーがデビューするときは、周囲は「彼はマスクマンだね」「髪の毛を違う色にしたほうがいいね」ってアドバイスされがちなんです。
 

――そういえば、アンダーテイカーも厳密には素顔キャラではないですね。


フミ アンダーテイカーはマスクマンに近い概念ですからね。テイカーさんが覆面レスラーとしてデビューしたのはいまから30年前の1987年3月、ダラスのスポータトリアム。相手はあのブルーザー・ブロディ。あまり使いたくない言葉ですけど、テレビマッチのジョバー(負け役)だったんです。ブロディが1分足らずで勝っちゃうような試合。


――それでもデビュー戦がブロディだったんですね。


フミ テレビ収録用の試合だから誰が相手でもかまわないはずなんですけど、ブロディが「キミがいい」ってテイカーさんを指名したんです。テイカーさんはデビュー前の新人ですから、大部屋のロッカールームをウロウロしてたんでしょう。そんな無名時代のテイカーをブロディが指名した。翌年にブロディはプエルトリコで亡くなってしまいますから、ブロディと接触するワンアンドオンリーの機会だったんですね。


――ギリギリでブロディという大物に触れることができた。


フミ デビュー戦のときはテキサス・レッドというリングネームだったんですが、面白いことにブロディも新人の頃はテキサス・レッドというマスクマンを短期間ながらやっていたときがあったんです。


――テキサスでは馴染みのある名前なんですね。


フミ ビッグ・レッドというシナモン味のガムもありますから、ありふれた名前ではあるんですね。テイカーさんはそこからダラスで2ヵ月くらい活動して、その次は南アフリカ共和国へのツアーに参加したんです。そのあとはアメリカ各地のインディペンデントを渡り歩きました。たいしたギャラがもらえなくても、大きな団体にスカウトされるまで、ガソリン代がポケットに残ってるうちはいろんなリングに上がり続けたんです。


――下積み期間だったんですね。


フミ そうして88年のはじめに先輩のダッチ・マンテルに誘われて、テネシーのCWAに上がることになったんです。そのときのリングネームはマスター・オブ・ペイン。そのCWAとダラスのワールドクラスが合併してUSWAという団体が生まれると、そこではパニッシャーというマスクマンに変身したんです。そして新日本参戦前の90年にはWCWに上がるんですよ。セッド・ビシャスとダニー・スパイビーがスカイスクレイパーズというタッグチームを組んでいたんだけど、セッド・ビシャスがケガをしてその代役としてテイカーさんが選ばれたんですね。WCWのときはミーン・マークやマーク・キャラスを名乗っていて。


――コロコロと名前が変わりますね(笑)。新日本時代はパニッシャー・ダイス・モーガン。


フミ 新日本もテイカーさんの素材の面白さを評価して、また日本に呼ぼうとしてたんです。スコット・ホールとのコンビでIWGPタッグ王座にも挑戦していますから、新日本としては今後も使っていきたいレスラーだったんでしょうね。新日本にスカウトしたのはカルガリー在住のジョー大剛(鉄之助)さん。大剛さんが見つけてきた新日本外国人選手はコンガ・ザ・バーバリアン、ハクソー・ヒギンズ、グレート・コキーナ(ヨコヅナ)、ザ・ソウルテイカー(ザ・ゴッドファーザー)。みんな大型レスラーですよね。外国人選手はヘビー級に限るという考えがあったんでしょう。


――テイカーさんのことも期待していたんですよね。


フミ テイカーさんが日本を離れる前に、彼のインタビューが載った『週プロ』を手渡しに行ったんです。そうしたら「オフィスからまた来てくれと言われたよ」って言うから再来日するんだと思っていたんです。そうしたらそのままWWEと契約してしまって。


――あの新日本参戦は素のテイカーさんの姿が見れたんですね。


フミ ずいぶんと貴重ですよ、そのままテイカーさんはスーパースターになるわけですから。

 

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