【バトラーツの奇跡と絶望】石川雄規“情念”のロングインタビュー

アントニオ猪木に憧れプロレスラーを目指し、佐山サトルのシューティングで腕を磨き、アメリカで“プロレスの神様”カール・ゴッチに教えを請い、帰国後は藤原喜明を師事。まさにストロングスタイルの王道を歩み続けたプロレスラー、石川雄規。彼とその仲間が興したプロレス団体バトラーツは、殴る、蹴る、極めるの原始的な戦い、いわゆるバチバチのスタイルで熱狂的な人気を博していく。しかし、経営不振で2001年に一度幕を下ろし、その後は形を変えての活動を続けていたが、2010年に解散。石川は現在はカナダでプロレスの指導しているが、石川が同地に導かれたプロレスの奇跡と絶望とは? イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!

 

 

 

――石川さんが「バトル・アーツ・アカデミー」のコーチとしてカナダに渡られてからだいぶ経ってますよね。
 

石川 もう2年と3ヵ月ですか。月日が経つのは早いですねぇ。
 

――向こうでの生活はもう慣れましたか。


石川 比較的ノンビリですよ。昼過ぎくらいにジムに行って。ジムにはいろんなクラスがあるんですけど、デイタイムはMMAクラス、夕方からは子供たちのクラス、夜にはプロレスを教えたりしてね。


――ジムはどんな場所にあるんですか?


石川 トロントの隣町。トロント空港から車で10分くらいの住宅街。とにかくジムは広いんですよ。オクタゴンがあって、キックボクシングのスペースがあって、アマレスのマットがあって、リングもある。ウエイトトレーニングの設備もありますし。会員は軽く300人以上はいるんじゃないですかね。正確な数字は聞いてないですけど。


――プロレスコースはどういう指導内容なんですか?


石川 結局やることはレスリングなんですよ。とかく北アメリカだとプロレスはエンターテイメントとして見られてるでしょう。がっちりとロックアップしてロープに振って……というのがプロレスだと思われてますからね。それはプロレスのメインロード。WWEのプロレスはそのメインロードのダイジェストを見せてるだけなんです。


――プロレスをやるからには緻密なロードマップを知っておかないとマズイわけですね。


石川 そうそう。いまはメインロードしか知らないでやってるプロモーションやレスラーが多すぎるんですよ。本来のプロレスリングにはMMAのスキルがあって、その周りにエンターテイメントの要素が混じってる。その外側だとマネすれば、なんとなくそれらしくは見える。でも、それじゃエンプティ(からっぽ)なんですね。WWEはエンプティじゃないですよ。素晴らしく完成されたエンターテイメントです。ファンもどきの“プロレスラー”は、外側の華やかなわかりやすい部分だけ見て「あの技、あの動きなら、自分もできるかも」と思うわけですよ。


――では、石川さんの指導に「プロレスはこんなことから習わないといけないの?」って驚く生徒もいるんじゃないんですか。


石川 そういう人も少しはいましたよ。ボクがキャッチレスリングからみっちりと教えて「そういうものがなければエンプティだ。エンターテイメントにはならない。ただのフェイクだ」という思想を叩き込んでいますよ。

――いまは日本でもそういった指導をする団体は少なくなってますね。


石川 かもしれないですね。いまは素人がプロレス団体を立ち上げるようになっちゃってるんで。でも、本来のプロというものは、道を外れても走り続けないといけないんですよ。素人でも見たことがあるメインロード以外の細かい道でも高速でカーチェイスできなきゃダメなんです。素人だったらすぐにクラッシュしちゃうような道をね。それがプロフェッショナルレスリング。


――つまりフリースタイルの対応力が求められるわけですね。
 

石川 いくらいい身体をしていても、かっこいいハイスパートをやるだけじゃダメなんですよ。第1試合も第2試合も第3試合も、おんなじよーな奴が出てきて、おんなじのよーな試合をやって、プロレスの表面だけのモノマネをして自己満足してるんですよ。「どうだい、俺はプロレスができるだろ?」って、いやいや全然できていない。偽物ですよ。


――そこで石川さんはカナダで真のプロレスを伝えてる、と。


石川 これからはバック・トゥ・ザ・レスリングの時代になっていくはずなんですよ。そこは繰り返していくと思うんですよね。レスリングの時代、ルチャっぽい動きの時代、マッチョマンの時代……そしてまたレスリングの時代が戻ってくる。本物のレスリングが求められたとき、誰も指導者がいなかったらどうします?


――いまは絶滅危惧種的なところはあるかもしれませんね。


石川 WWEのプロレスは、言ってみればディズニーランド。完成されたエンターテイメントの世界ですが、そのプロレスも世の中には絶対に必要なんですよ。だけど、プロレスってそれだけじゃないんですよ。猪木さんが築き上げてきた文学的な世界もあるんです。挑戦すること、戦い続けること、信じ続けること……俺たちは猪木さんのプロレスを通して人生を考えてきたじゃないですか。
 

――考えてきましたねぇ(笑)。


石川 テレビの前に正座して、猪木さんの戦う姿を見て「俺の人生はどうなんだろう? こんなんでいいのだろうか……?」って自問自答していたわけですよ。ディズニーランドに遊びに行ってそんなことは考えないじゃないですか。「あー、楽しい、面白い!」の世界ですから(笑)。
 

――ディズニーランドで自分の人生は考えないですね(笑)。


石川 いまのプロレスはそうやってみんなディズニーランド化しちゃってるんですよ。なぜ文学的なプロレスをやらないかといえば、面倒くさいから。アントニオ猪木のプロレスは、“行間を読ませる”文学的要素がものすごく含まれていて、とても深い。でも、表現する側にとってはこんなに面倒くさく、難しいものはない(笑)。
 

――その面倒臭さが癖になるわけですね。


石川 いまは体育会系のプロレスばっかでしょ。「俺はプロレスが好きなんだ、こんなに好きなんだあ!」というプロレス。でも、猪木さんはそんなことは言ったことがないし、そんなプロレスをやったことがない。「俺はなんでレスラーになっちゃったんだろう? 俺はレスラーになってよかったんだろうか……?」っていう、まるで禅問答のような哲学的なことをこちらは勝手に感じ、勝手に考え、勝手に思いを巡らせていたわけです。そうして心を揺さぶられたんですね。いや、もしかしたら“勝手に心を揺さぶっていた”だけのかもしれないけど。うん。
 

――猪木さんの対極にディズニーランドとして、当時は馬場さんのプロレスがあったわけですよね。


石川 猪木さんが馬場さんのプロレスを嫌いだったとか、好きだったとかということでなく、自らの立ち位置を確立するためには、舶来のエンターテイメントプロレスを凌駕する、日本文化に則した“日本のプロレス”が必要であると、本能的に感じたのではないでしょうか。まさに、未来の日本のために天から与えられた使命というか。馬場さんのプロレスが対極にあったからこそ俺たち猪木信者も、意地になって“考えるプロレス”をしていたんでしょうね。


――そう考えると猪木さんのプロレスは特殊だったんですね。


石川 私の世代の前後、プロレスラーを目指し、プロレスラーになった人間は、ほとんどがアントニオ猪木のプロレスに影響され、狂ったクチじゃないですかね(笑)。そこは馬場さんのプロレスがいい悪いじゃなくて。猪木さんは狂い人として、他人を狂わせるプロレスをやっていた。ヒールだベビーフェイスだでプロレスをやっていなかったんですよね。


――昔WWEのレッスルマニアでロックvsホーガンをやったときに、ヒールのはずのホーガンがファンから大声援を送られて試合中に立ち位置がチェンジしたことがありましたけど。


石川 それなんですよ! 本来はそのレスラーから滲み出るものによって、ヒールやベビーフェイスって分けられていくものじゃないですか。なのに、この試合はどっちがベビーをやるのか、ヒールなのか。見る方も緊張感もなく「こっちが悪役だから」ってブーイング、ベビーフェイスだからって声援。そうじゃないんですよ、プロレスは!


――石川さんのプロレスへの思いは、両親にプロレスラーになることを大反対されたことで深まっていったところもあるんですよね。


石川 俺が「プロレスラーになる」と言い出したことで、進路問題は揉めに揉めて母親は具合悪くなって寝込んだりしましたしね。でも、迷いはありませんでした。“闘い続けよ。夢は叶う”というアントニオ猪木の言葉か正しいということを自分の人生をもって証明してやると心に決めてましたから。


――お母さんに「猪木と私、どっちを取るの!?」まで言われたんですよね。


石川 でも、あのときの俺は「猪木!」と言えなかったんです。口をつぐんでしまった自分を十数年、責め続けましたねぇ。「俺はダメな奴だ、ダメな奴だ、ダメな奴だ……」って。それで行動で示すしかなかった。


――そんな親御さんの反対もあって、とりあえず大学には進まれて。


石川 日大のレスリング部に入りました。周囲は特待生というんでしょうか。高校生のときにインターハイチャンピオンとか、活躍してきた選手ばかり。中にはオリンピックに出る選手もいますしね。そんな中に、アマレス未経験の生徒がわざわざ厳しくて有名な体育会レスリング部に飛び込んできたわけですから、変人だと思われましたね。


――そこに飛び込んだのはもちろんプロレスラーになるためですね。


石川 とりあえずやれることをやろう、と。高校ではスポーツに全然、力を入れていない進学校のコーチもいない柔道部でしたから。それでも高校のときはスクワット1000回2000回やってましたからね。「打倒・新日本プロレス!」とわけのわからないことを言いながら。もうリアル「1、2の三四郎」ですよ(笑)。


――日大のレスリング部も相当厳しそうですね。


石川 高校を出たばかりの青年にとっては地獄のようでしまよ。あの頃、日大のレスリング部員は合宿所に住んでいて、もう、一年生は奴隷のよう。電話のコールはその日の当番が3回以内で出なければならないルールで、遅れるととぶっとばされましたしね、まあ、この緊張感を持つ癖は、社会に出て役にたちましたけど(笑)。
 

――バリバリの体育会系(笑)。


石川 寝てるときも油断はできないんですよ。先輩が何か用があるときは壁を叩くんです。夜中に「ドンドンドンドン!」って。バッと起き上がって走って先輩に部屋に行くと「ちょっとカーテン閉めて」

「水を持ってきて」とか。インスタントラーメン買ってきて作ったりすると、他の先輩が「あっ、俺も食べたいな」と、またコンビ二走ったり。


――完全に奴隷扱いなんですねぇ。


石川 1年間は完全に奴隷。で、2年生になったときに佐山サトル先生が三軒茶屋でスーパータイガージムを開いたことを知ったんですよ。即座に「これだ!」と。レスリング部はちょうど1年の区切りでやめさせてもらいました。奴隷扱いは1年生までだから、下働きがつらくてやめるわけじゃないですよってことで。


――では、ほぼ立ち上げ初期のスーパータイガージムに通われたんですね。


石川 比較的そうですね。北原(光騎)さんがコーチのときで。北原さんとは1年くらい経ってから全日本プロレスに行かれましたから。あの伝説の合宿も参加しましたよ。

 


――あの伝説の!!(笑)。佐山さんがスパルタ指導する動画は衝撃的ですが……。 


――合宿ではいつもあのテンションなんですか?


石川 そうです。


――そうです(笑)。


石川 先生もムキになる性格だから、体育館のスペースを借りて練習するときは、ほかのアマチュアの競技の人間に見せつけるかのように厳しくやるんですよ。


――見られることでハードになっていくわけですね(笑)。


石川 でも、ボクは先生に引っ叩かれたことはなかったですね。なんかね、俺には優しかった。そこは本能でわかるのかな、「コイツはリミットまでやってない」とか「石川はキチガイだから放っておこう」とか(笑)。だってジムでも「先生、今日はスクワット4000回やりました」とか報告してましたから。


――4000回……!!


石川 「えっ、4000回〜!?」「雑誌にスクワットやると背が伸びる、て書いてあったので!」「バカ、あれは嘘だ。背なんかのびないぞ!」なんてやりとりもあったなぁ(笑)。合宿でも、まず板の間でフットワーク1時間。最初の10分で足の裏が水ぶくれになって。


――うわあ……。


石川 それでも知らんぷりして、足がグチャグチャになってるのに続けて。あとで先生から「お前、早く言えよ〜」って呆れられました。あの鬼の佐山先生にそんなことを言わせたのは俺だけですよ(笑)。


――佐山さんも呆れる根性(笑)。


石川 根性があるとかそういう話じゃないんですよ。だってプロレスラーになるために、猪木を否定した大人たちを土下座させるためにも、死んでもプロレスラーになろうと決めたんですから。


――シューティングは何年やられていたんですか?


石川 大学の3年間ですね。


――そのときはまだ競技化されてなかったんですよね。


石川 ちょうどボクが大学を卒業するときにその動きがあったんです。その候補選手に12名が選ばれて、10名が承諾して、1名が「自信がない」ということで辞退して。もう1名は何も名前が書かれてなかったんですけど、たぶん俺だったんですよね。あのときの俺は、佐山先生には言えなかったんだけど、ゴッチさんのところに行きたかったから。あの頃の佐山先生はプロレスが大嫌いだったから言えなかった。プロレスラーになりたいからシューティングをやめてゴッチさんのところに行くなんて言えなかったんですよ。


――当時の佐山さんはシューティングを形にすることが使命でしたし、新日本やUWFでいろいろとあったことで、プロレスと距離を置いてましたね。


石川 でも、ボクは強くなるためにシューティングをやりましたから。だって強くないとプロレスラーになれないし、セミプロの延長線上がプロなんですよ、本来は。いまは「アマチュアプロレス」とか言ってるバカがいるわけでしょ? 「アマチュアプロ野球」なんて言わない。アマチュアを超越してるのがプロなんだから。そのためにもシューティングをやったし、ゴッチさんのところにも行きたかったんですよ。


――それまでゴッチさんとはお会いしたことはあったんですか?


石川 ゴッチさんが佐山先生のジムに指導に来たことがあったんです。そのときにゴッチさんに習いたいな、と。あの頃、俺は身体も小さいし、年齢も22歳。当時の入り口にしては、若くない。山本小鉄さんに会っていただいて直談判したけれど、門前払い。プロレス団体に入るのはほんとうに難しかった。入門テストをクリアしても「おまえ小さいから、ダメ」と落とされたなんて話もよく聞きましたね。そんな時代。


――当時は団体も少なかったし、プロレスラーは狭き門でしたね。


石川 ゴッチさんに「大学を卒業したらゴッチさんのところに行きたいんです」って伝えたんですけど、ゴッチさんからすれば単なる少年。目を丸くして驚いてるんですよ。「まあ、いいけど……」という軽い感じのリアクションで。で、実際に行くにあたって、佐山さんにゴッチさんの家の住所を聞けないでしょ。『週刊プロレス』編集部を訪ねてターザン山本さんに相談したんです。そうしたら「行けばわかるよ!」と。


――さすがターザン、適当だなあ(笑)。


石川 『ゴング格闘技』の雑誌かなんかにゴッチさんが家の前でいる写真が載っていて。その写真には湖が写ってたんですよ。そこがオデッサという街であることはわかってた。オデッサはフロリダのタンパから車で30分くらい。そこに行って湖を探せばゴッチさんに会えるんじゃないかと思ったんですよね。


――湖だけを手がかりに。


石川 それでお金を貯めてアメリカに渡ったんですけど……オデッサに行ってみたら、数百の湖や沼があるんですよ(笑)。


――ハハハハハハハハ!


石川 現地に着いて「なんだよ、これ!?」って絶望ですよ! 湖、湖、湖だらけで。(スマホを取り出して)いまグーグルマップで見てみます? ほら、湖ばっかり(笑)。


――いまだったら行かないですか?(笑)。


石川 行ってないですよ(笑)。だから運が良かったんです。知らなかったら行けたんですから。


――なるほど(笑)。


石川 そのときに乗ったタクシーの運ちゃんがいい人でね、「写真一枚を頼りに日本から来たのか?なんのために?」と聞くから事情を話したら「Oh my God!  Crazy !」と驚かれて。「俺は昔、日本に一度だけ行ったことがあるんだ。京都だったかな。道に迷って途方に暮れていたんだが、そのときに通りすがりの人に親切にしてもらった。でも、その人は通りすがりの人だからお礼もできない。ジャパニーズボーイ、おまえにお礼をする」って一緒に探してくれたんですよ。


――いい運ちゃんですね(笑)。


石川 それで湖の周辺をタクシーで走ってくれたけど、探しても探しても見つからない。俺も心の中で「こんだけ探したんだから夢を追いかけたと言えるよな……」って一瞬挫けたんですよ。そのとき運ちゃんが「コーヒーでも飲もう」とコンビニみたいなところに寄ったんです。そこでゴッチさんの写真をコンビニの客に見せたら、お婆さんが「私の家の隣のおじいさんよ、この人!!」って(笑)。すぐにその場所までタクシーですっ飛んでいって。たしかにゴッチさんはいた。


――神様に会えた!


石川 でも、ゴッチさんは俺の顔を見て戸惑ってるんですよ。「誰だっけ?」って感じで。


――うわあ(笑)。


石川 そりゃそうですよね、日本で一度会った名もない少年ですから。でも、あのときにゴッチさんが「ヘイ、ボーイ。おまえはいい身体してるけど、ウエイトトレーニングの偽物だろう? こういう腕立て伏せできるか、ああいう腕立て伏せできるか? こんなオールドマンでもできるぞ」ってかまってくれたんです。ゴッチさんは、なんか気になる人はイジるんですよ、からかうんですよ。ホントに嫌いだったら声もかけない。ゴッチさんが俺のことを「ヘーイ、偽物、偽物」ってからかってくれたことを思い出して、「ゴッチさん、本物の筋肉に変身してきました!」と言ったら、ゴッチさんは驚いた顔をして「……あのときのボーイか!」って。


――まるで筋書きがあるかのような展開ですね。


石川 一個一個の宿題というか、やれることをやっていくと次の出会いが生まれるんですよ。あの頃の自分は、プロレスラーになるという夢を、大人たちによってたかって否定されても、やれることを全力でやった。ただひたすらスクワットを何千回も繰り返すだけだとしても。それが何につながるかわからなくても、ただひたすら、そのときに“やれる事”を最大限にやった。


――そのままゴッチさんのところでトレーニングすることになったんですか?


石川 いや、そのときのゴッチさんは誰かに教えるってことはしてなかったです。自分のトレーニングはやっていたんですけど。「友人のマレンコ(ボリス・ラリー・マレンコ)がプロレススクールをやっている。そこに行け。わたしも教えにいくことにしよう」と、言ってくれたわけです。


――マレンコスクールでゴッチ教室が開催されたんですね。


石川 マレンコスクールではアメリカンプロレスとシュートレスリングを教えていて。ボクはいられるのは3ヶ月間だけだったんですけど、ゴッチさんがしょっちゅう道場に来てくれて教えてくれて。デビー・マレンコもゴッチさんに習っていましたね。


――全女に参戦していたデビー・マレンコですね。


石川 彼女もゴッチさんに興味を持って、ゴッチさんの教室に参加するようになって。ゴッチさんの弟子の中では唯一の女性なんじゃないですかね。


――普段のゴッチさんはどんな人柄だったんですか?


石川 マレンコさんの家で、ゴッチさんと一緒にビールをしょっちゅう飲みましたねぇ。ラリーさんはゴッチさんとは仲良しなんだけど、ゴッチさんのおしゃべりにつかまるのをおそれて「ちょっと買い物に行ってくる」って姿を消しちゃうんです。ゴッチさんは平気で3〜4時間しゃべり続けますから。


――逃げ出すほどのおしゃべり好きですか(笑)。


石川 電話で2〜3時間しゃべったあとに「ところで電話でもなんだから、話に来い!」というくらいの話好きですから(笑)。


――ゴッチさんはどんな話をしてくれるんですか?


石川 哲学的な話もするし、昔のプロレスの話もしてくれます。いろんな話ですよ。一番印象に残ってる言葉は「技術は人が教えてくれるけども、ガッツは誰も教えてくれない」ですね。それで3ヵ月経って帰国しようとしたときに、ちょうど日本で(新生)UWFが分派したんですよ。前田(日明)さんのリングス、高田(延彦)さんのUインター、藤原(喜明)さんの藤原組。空中さんは藤原組についていくことになって「石川、今度藤原さんが団体を立ち上げるから新弟子として入らないか?」と誘われたんです。


――ゴッチさん訪問からプロレス界への道が開かれたんですね。


石川 何かに導かれたんですねぇ。藤原さんに初めて会ったのは安行の植木屋でした。空中さんに連れて行ってもらったら、盆栽を見てる藤原さんの後ろ姿が見えて。UWFのジャージを着てるんですけど、背中のUWFの文字がマジックで塗りつぶされてるんですよ。藤原さんらしい(笑)。


――UWFが塗りつぶされてた(笑)。そうして藤原組の立ち上げから参加されたんですね。


石川 藤原組の同期は高橋義生、柳澤龍志。義生はもともとアマレスのチャンピオンで実力もあってボクよりデビューは早かった。入門は数ヶ月、ボクのほうが早かったんです。だからいまでも向こうが「石川さん」と呼んでくれて。


――藤原組はメガネスーパーがメインスポンサーでしたよね。


石川 あの頃はメガネスーパーがバックについていたので、金銭面では恵まれてましたね。若手なのに充分に給料をいただいてました。その代わり地獄のようなトレーニングを朝から晩までやってましたよ。だってみんな生命を危機を感じてみんなやめていくんだもん。


――生命の危機ですか……。


石川 「このままだと殺される……」って。赤子みたいな何もできない新弟子を相手に船木さん、鈴木さんがガチガチのレスリングでいたぶるわけですよ。上に乗っかられて動けない恐怖感ってわかります? 


――実験台の状態が延々と続くわけですね……。


石川 毎日1時間以上やられて、口の中は切れてグチャグチャ。練習が終わったあともイジられるわけですよ。先輩にとっては単なるイタズラかもしれないけど、新弟子にとっては恐怖ですよねぇ。

 

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